2012年02月10日

ダーリンメモ 2/10

糸井さんがこういうことを言ってくれるから
ついていってしまう。


ぼく自身が、なにかの都合で職業を記すときには、
 「会社員」だとか「会社役員」だとかを選んでいます。
 おれの職業なんだっけと、
 考えるのがめんどくさいからです。
 社会という森で、会社員という毛皮は「保護色」です。
 
 しかし、それにしても、
 誰も彼も、なにもかも、みんな会社員になってしまった。
 長い間フリーランサーで仕事をしていたぼくも、
 チームプレイをやろうとして会社にしてしまいました。
 そういうぼくが言うのも、口幅ったいのですが、
 生きる術が会社員以外ないかのような社会は、
 やっぱり、ずいぶんおかしいと思うんです。
 「職業につく」ということと、
 「企業に就職する」こととはイコールじゃないはずです。
 
 「会社員」だから収入が安定しているとか、
 「会社員」だから信用されるとか、
 「会社員」だから、生活設計ができるとか、
 いろいろよさそうなことを言われてきましたけれど、
 そうともかぎらないということも、わかってきました。
 
 日本中、「会社員」ばかりというのが、
 そもそも、ずいぶん不思議なことだという気がします。
 「会社員」じゃない生き方をすると、
 「会社員」に比べて、どんだけ不利なのでしょうね。
 なんか、これはいまのぼくの直感なんですが、
 「会社員」じゃない人たちが生みだすものが、
 これからの豊かさをつくっていくんじゃないかな。
 職人、主婦、無職、商店主、手伝い、老人‥‥
 こういう人たちにできること、
 こういう人たちが必要とされることって、
 ほんとは、もっとたくさんあると思うんですよね
 (選挙権だって、会社に関係なくありますもんね)。
 
 仕事のしかたを、もっと考えられないものかなぁ。
 ぼくには、まだこれ以上はわからないのですが、
 変わっていくとしたら、東北の被災地あたりから、と、
 そういう気がしてならないんです。
 いや、そうしたいものだよなぁ、がんばろっと。
posted by DOKSO at 11:29| Comment(0) | itoi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月01日

ダーリンメモ 2/1

川勝正幸さん死亡のニュースを知った夜に読んだ。


気のせいなのかもしれないのだけれど、
 こうして、冬に、とても寒い日が続くと、
 人が亡くなったというニュースが多くなるように思う。
 寒さが、直接に、人のいのちを奪っている
 ‥‥というわけじゃないのだろうけれど、
 とても寒い日を感じているときには、
 遠くへいった人の話を、よく聞くように思えるのだ。
 
 生まれて、そして死ぬということは、
 誰にもかならずついてくることなので、
 それを格別に悲しむことはないという言いかたもある。
 そうなんだけれどね、それをそのまま受け容れるのは、
 ちょっとできない相談だ。
 「もういいや」と思うまで生きて死ぬ、という人も、
 ひょっとしたらいるのかもしれないけれど、
 たいていは、生きてきたこの世に、
 少なくない未練を残して旅立つのではないか。
 生きることそのものは、腹が満ちるようにはいかない。
 
 しかも、遠くへゆく人は、
 さよならの瞬間を知らぬまま旅立ってしまう。
 死について考えることは、
 なんとも、解決のしようもないことばかりで、
 どうどうめぐりしているばかりだ。
 
 ずいぶん寒い日が続くね。
 こればかりなら、言える。
 いくつものさよならが、寒さのなかにある。

・昨年の12月から今年の1月になって、
 カレンダーを取りかえたはずなのに、
 まだ一年経ったという実感がないままです。
 どうも、ぼくのこの一年は、
 三月のあの日から数えているように思います。
 長い時間が過ぎて、ようやく二月になりました。

・いまさらながら、「げんきでやろう」です。
 バカみたいと思われようが、
 元気でなにをしたいかが問題なんだ言われようが、
 「おまえも、げんきでやろう」と言いたい冬です。
posted by DOKSO at 23:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月27日

ダーリンメモ 1/27

「激しく同感。
楽器の例えとか唸るね。」



「自前」とか「自腹」とか、
 それなりにじぶんの身を削って得る経験を、
 もっとしたほうがいいと思うんだよね。
 
 レシピとか、マニュアルとか、レビューとか、
 体験記とか、ランキングとか、
 なにかをしようと思ったり、使おうと思ったりすると、
 参考にできる情報が山ほどある。
 だから、なんにもしてない、手に入れてないうちから、
 「あれはいい」だの「これはこういう欠点がある」だの、
 すっかり知ったような気になれるわけだ。
 
 どんなものごとにも、長所と短所があるし、
 人にはそれぞれの好みもあるから、
 どれほどあらゆる情報を集めて検討したとしても、
 誰でも納得できるひとつの結論なんてものはない。
 それに、ものごとには、
 受け手の側の技術ってものもあるからね。
 どんなに優れた楽器を買ったって、
 演奏の腕がなければ、いい音楽は奏でられないわけでさ。
 
 比較検討、情報精査、最良の選択‥‥
 なんてことばかり、やってるのってケチくさくないか。
 「転びたくない一心で、全力で走らない」みたいな感じ。
 もっと損しろよ、と、ぼくは思うんです。
 買った本や映画がつまらなかったとか、
 行ってみた遊び場でおもしろくなかったとか、
 手に入れた家電があんまりよくなかったとか、
 失敗したり損したり、じぶんの裁量でやろうよ、もっと。
 まぁ、選んだ恋人がろくでもなかった
 ‥‥なんていう厳寒のケースも含めてさ、
 傷や痛みをある割合で引き受けたやつのほうが、
 損はしているかもしれないけど、心がでかいと思うんだ。
 
 ま、傷を負うのが目的ってわけじゃないんだけど、
 じぶんの人生は、「自前」で「自腹」だろう。
 資料だかデータだかばっかり凝視していたら、
 どれほど「失敗を避けられる」としても、
 「自前」の「自腹」のおもしろさがないよねー。
 失敗は成功のもとって、ほんとにほんとなんだぜ。
posted by DOKSO at 11:18| Comment(0) | itoi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月20日

ダーリンメモ 1/19

この書き出しから、なにげに親鸞の宣伝になる辺り
さすがです。



昨日、ほんとに「ふと‥‥」思いついて、
 <じぶんで選べないことは、その人のせいじゃないです>
 と書き記しました。
 これは、吉本隆明さんがなにかのときに、
 呼吸でもするように言ったことばです。
 生まれた時代や生まれた国、どちらもじぶんで選べない。
 肌の色、からだの大きさやかたち、
 そして兄弟やら両親も選べません。

 親しい人どうしが、たがいに、
 からかいあったりすることはあるかもしれませんが、
 じぶんでどうしようもないことで、
 責められたり不利益を受けたりするのは、
 あってはいけないことだと思います。
 
・もうちょっとだけ広げると、
 いかにも「じぶんで選べる」ように見えて、
 じつは「じぶんで選べない」こともたくさんあります。
 ものしりであることとか、教養があること、
 たくさん本を読んでいることなどを、自慢する人や、
 ものを知らない人を簡単にバカにしようとする人が、
 なんとなく気持ちわるいのは、
 教養を得るための時間や環境があったことを、
 勘定に入れてないからだと思います。
 ほんとに教養のあるかっこいい人は、
 ものを知らない人をバカにしたりしません。
 いや、あらゆる人から学ぼうとします。
 
・ま、こういうふうなことを言うと、
 どこかに「じぶんはどうなんだ」ということになって、
 さんざんボロが出るのは目に見えているのですが、
 ものを知らないとか、ものを言わないとか、
 そういう人が否定されるような考え方は、
 ほんとうのよさを持てないんだよなぁ、と、
 このごろ、つくづく思うのです。
 中世に生きていた親鸞さんが、
 「南無阿弥陀仏と言うだけで、誰でも」と言ったのは、
 修業を積んだとか、熱心に勉強したとかじゃない人を、
 まるごとみんな肯定したという意味で、
 かっこいいなぁと思えるんですよねー。
posted by DOKSO at 09:28| Comment(0) | itoi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月28日

ダーリンメモ

「人によろこばれる」ということは、
 人間にとって、もう「本能」と、
 言っていいものじゃないでしょうか。
 
 「ありがとう」ということばを、
 たくさんの人たちが、あんなに好きなのも、
 「人によろこばれる」ときのことばだからでしょう。
 
 「ほぼ日」のなかでも、よく、冗談半分に
 「おれたち、ほめられたらなんでもしちゃうな」
 とか言いあっています。
 
 人間といっしょにするなとも言われそうですが、
 犬も、「おお、よくできたねー」という
 飼い主のよろこびの声をごほうびにして、
 いろんなことができるようになります。
 最近うちの犬は、散歩コースを引き返すポイントで、
 「ターン」と言うと素直に帰るようになったそうです。
 
 「人によろこばれる」仕事をしているという実感は、
 働くことをとてもうれしいものにしてくれます。
 叱られ、怒鳴られておぼえていく仕事も、
 (ぼくにはわからないけれど)あるのかもしれませんが、
 なにが「よろこばれる」ことなのか、
 だんだんわかっていく過程のほうが、
 のびのびした上達への道のように思えます。

 「雇用」ということばが、よく使われていて、
 うん、それはもう、ほんとうに大事なことだと思います。
 ただ、このごろ思うようになったんです。
 職の数と、人の数が合うだけじゃ、
 ほんとうの「雇用」にはならないんですね。
 むろん、職を持つというのは
 生活の手段でもあるのだけれど、
 同時に「人によろこばれる」という
 「本能」を満たしてくれるものでもあると思うんです。
 「人によろこばれない」仕事をしているのは、つらい。
 反対に、「人によろこばれている」という実感があれば、
 かなりの仕事は、やれるものなんじゃないかなぁ。
 気仙沼に通うようになって、特に思っていることです。
posted by DOKSO at 00:22| Comment(0) | itoi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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