2013年02月11日

シャッフル

これもタイムリープものの一つと言えよう。

シャッフル [DVD] / サンドラ・ブロック, ジュリアン・マクマホン, ニア・ロング, ケイト・ネリガン, アンバー・ヴァレッタ (出演); メナン・ヤポ (監督)
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2013年01月08日

ダーリンメモ 2013/01/07

・たとえば、じぶんがクルマだったとしたら、
 走りたいと思うんだ。

 速く、すっごいスピードで走りたい。
 わぁっとみんなをびっくりさせるような速度で、
 走り回りたいと思うんだ。
 
 ずっと、どこまでも遠くまで走りたい。
 ガソリンの最後の一滴がなくなっても、まだ、
 走り続けていたいと思うんだ。

 たくさんの人たちを乗せて運びたい。
 憶えたての歌を歌うこどもたちとか、
 何百人でも乗せて走りたいと思うんだ。

 たとえば、じぶんが歌だったら、
 じょうずでも、へたでもかまわないから、
 みんなに歌ってもらいたいと思うんだ。

 たとえば、じぶんが野うさぎだったら、
 地面にいっぱい穴をほって、いっぱい逃げたり、
 いっぱいはねたり、いっぱいこどもつくったり。
 野うさぎっぽいこと、いっぱいしたいと思うんだ。

 たとえば、じぶんが生まれたての人だったとしたら、
 なにができるのかわからないままに、
 できることを探したり増やしたりしながら、
 なにかやらせて、なにかやらせてと動くんだろうな。
 
 クルマでも、歌でも野うさぎでも人間でも、
 できることはぜんぶやったなぁと感じるのが、
 いちばんのあこがれだよなぁ。
 
 このからだを、このこころを、この知恵を、
 この思い出を、このいのちを、
 まるまるまるごと使い切れたら最高だよな。

 できるかもしれないことは、したい。
 できることは、もっとじょうずになりたい。
 生まれたての人のようにね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
生まれたての人だったとき、ものすごく生きたがってたね。
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2012年09月26日

ダーリンメモ 2012/09/26

気仙沼のおじいさんが、きっぱり言いましたっけ。
 「津波がどれだけ恐ろしいといったって、
  戦争のほうが何倍も恐ろしかった。
  つらいつらいと言ったって、
  戦争のときのほうが、ずうっとつらかった」
 ぼくは、それを聞いてて、
 簡単に「そうですよね」とは言えませんでした。
 目の前に津波の被害があるところで、
 「戦争のほうがつらいですよねぇ」なんて、
 旅人が言えるわけはなかったですから。

 でも、このことばは、あちこちで何度も聞いてました。
 戦争を体験した方々は、口々に、
 「あのときに比べたら」と、教えるように言いました。
 そうなのか、そうなんだろうなと思うと同時に、
 ずっと「どうしてなんだろう?」と考えていました。
 
 考えて、わかったようなことは言えないけれど、
 この「戦争」という文字を「人間」に置き換えると、
 ずいぶん怖さが実感できるような気がしました。
 
 たしかに、津波はある日一度襲っただけですが、
 戦争は、毎日続きます。何年も続いたりします。
 (人間がそれをやめないからです)
 津波のとき高台に逃げて助かった人がいたけれど、
 戦争は、隠れても探しだし、逃げても追いかけてきます。
 (人間は、そういうことができますから)
 しかも、追いかけてくるのは、敵ばかりではない。
 味方だと思っていた「正しい人たち」が、
 考えのちがうものを、探しだして吊るし上げてくれます。
 (人間は、そういうこともする)
 そんな日々が、ずっと続くのが戦争だとしたら、
 そりゃぁ「津波より恐ろしい」と言うのもわかります。
 
 津波が怖くないなんて、言ってるわけじゃないのですが、
 ほんとうに戦争は恐ろしいものなんだと思います。
 凝り固まった人間が、許さない人間が、
 じぶんの考える正しさのために、なんでもする‥‥。
 海は、翌朝、すっかり穏やかな海に戻ったらしいけれど、
 人のすることは、そうは行くもんじゃない‥‥。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
人間のいいところも、たくさんあると知ってるからこそね。
posted by DOKSO at 20:16| Comment(0) | itoi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月08日

ダーリンメモ 2012・09/08

「たのしみ」っていいなぁ。
 いいもんだなぁと、つくづく思うのです。
 
 「たのしみ」というものを、
 あんまり大事じゃないと思っている人もいますが、
 たぶん、そういう人にも「たのしみ」はあるんです。
 
 「たのしみ」って、たとえば、
 明日の献立だったりします。
 好きな食べものが食べられるという「たのしみ」。
 それがあるだけで、前の日も、その日もうれしいですし、
 その「たのしみ」があると、
 人にもやさしくできるように思います。
 
 会いたかっただれかに会えるという「たのしみ」。
 その人の笑顔を想像するだけで、
 ひょっとしたらよだれが出ちゃうかもしれない。
 そんな「たのしみ」を持っている人は、
 まわりの人たちをたのしくさせてくれそうです。
 
 ときには、つらそうにも見える「たのしみ」もあります。
 負けるかもしれない試合がある、なんていうのは、
 「たのしみ」に思えないかもしれない。
 でも、たぶん、明日になれば、
 試合そのものが「たのしみ」だったってわかります。
 
 「たのしみ」があれば、明日がある。
 毎日「たのしみ」のある人は、明日が好きになれる。
 そういう日々があったことを、ぼくも思いだします。
 いまのぼくや、ぼくらは、
 じぶんたちに「やるべきこと」ばかりやらせていて、
 「たのしみ」をつくっていないのかもしれません。
 ビールの大好きな人が、
 夕暮れどきにビールについて語るような顔で、
 ぼくらは、もっと「たのしみ」を見つけましょうか。
 
 ごほうびとしての「たのしみ」でなくとも、
 「たのしみ」を「ただのたのしみ」としてたのしむ。
 そういう、幼いころのような「たのしみ」を、
 おじさんも、おばさんも、おねえさんも‥‥ね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
明日の「たのしみ」があれば、明日も生きていたいものね。 
posted by DOKSO at 16:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月24日

ダーリンメモ 2012/7/24

なんか宮沢章夫のエッセイみたいだけど面白い。

まいったなぁ。
 ぼくは、どうやらたまに寝言を言うらしい。
 それも、むにゃむにゃとかじゃなくて、
 家人の言によれば「口跡もよく、明言という感じ」。
 苦笑しながらという風情のときもあるし、
 真剣に言っておくぞというような調子もあるという。
 
 いちおう、最後の寝言として記憶されているのは、
 「つうきせい(通気性のことかと思われ)」である。
 空気の通りのことについて、ぼくは寝言した。
 (ん、「寝言する」という言い方は気に入ったぜ)
 じぶんが「通気性」と預言していたことについて、
 ぼくは「受け容れよう」と決めたのだった。
 その日から、生きることのなかに、
 「通気性をチェックする」という一仕事を加えた。
 企画にしても、組織にしても、服や建物についても、
 「通気性は大丈夫かな?」と考えることにしている。
 これは、おおいに善いことだったと思う。
 
 そして、昨日だ。
 「また、寝言を言った」と伝えられた。
 言われてもぼくはあわてない。
 女性の名だったり、下品な単語であったりしても、
 眠ってる人間のすることだ、知ったことではない。
 しかし、あわてないとはいえ、気にはなる。
 「なんて言ってた?」
 「けっこう強い口調で、『もう、飽きた!』って」
 ‥‥そうか、そんな身も蓋もないことを寝言したか。

 「もう、飽きた!」‥‥東北の旅をしていて
 「もう、秋田!」と言ったのかもしれないけれど、
 たぶん、そうじゃないんじゃないかなぁとは思う。
 
 眠っているおれよ、もうちょっとヒントをくれ。
 なにに「飽きた」のだ。
 起きてるおれは「飽きた」ことをガマンしているのか?
 それとも、じぶんに関係の薄いなにかに「飽きた」のか。
 いちばん知りたいのは、じぶん自身だっつーの。
 「人生に飽きただったりして」と冗談を言う唇が寒い。
 次の寝言が出るまでは、「飽きた」のチェックをします。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
飽きたを100万回言ったあとに、夢の領域が見えるのだ。
posted by DOKSO at 15:56| Comment(0) | itoi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする