2011年09月22日

ダーリンメモ

ぼくが職業として、それでめしを食っていたのは、
 コピーライターという仕事でした。
 コピーライターとして、
 専門の勉強をしたことになっていましたが、
 専門学校のようなところで、1年くらいだけです。
 その期間、教室に通ったことを根拠に、
 ぼくはコピーライターとして、
 広告制作プロダクションに就職したのでした。
 
 専門性のちがいなんて、講座に通ったかどうかだけです。
 このことについては、ぼく自身が、
 「あやしいものだよなぁ」と思っていました。
 実際の仕事をはじめてから、ぼくの実力は、
 ほんの少しずつましになっていったのでした。
 
 じぶんの職業の専門性を疑っていたぼくは、
 他の職業の人にも、その失礼な目を向けていました。
 写真学校を出たからカメラマンだとか、
 美術の学校を出たからデザイナーだとか、
 料理学校に通ったから料理がうまいとか、
 経済学部を出たから経済のことはまかせとけとか、
 そういう思いこみは、やめたほうがいいと思ってました。

 たった1年か2年、なにかを習ったということで、
 どれだけ「シロウト」とちがう力を発揮できるのか。
 そういう生意気なことは、いまも思っています。
 なにかを習ったから、「最低限ここまでできる」とか、
 ある期間弟子だったから「一割くらいは先生」なんて、
 自動的に力がつくなんてことは、ないと思っています。
 せいぜい、「その世界に詳しい人」になるだけです。
 
・素直で真剣な「シロウト」は、
 素直に真剣に「専門家」を追いかけたらいいと思います。
 ビートルズは音楽学校ではなく、美術学校の学生でした。
 しかし、ビートルズという音楽家になった‥‥。
 素直に真剣にくりかえし学ぶ「シロウト」であること。
 「ほぼ日」は、そうでなきゃいけないなと、
 このごろまた、つくづく思っています。
 練習のための練習でなく、実現したいからやる練習。
 ぼく自身も「シロウト」のまま、がむばりまっす。
posted by DOKSO at 07:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月20日

ダーリンメモ

緩いまくらからの展開が素晴らしい
参考リンク
http://www.1101.com/fukushima/2011-08-18.html


「イーさん」という名前の犬がいます。
 推定される年齢は10歳ということですが、
 もっとずっと若いかもしれないとも聞きました。
 犬種は「キャバリア」で、たぶん純血種でしょう。
 『福島の特別な夏。』にも登場している友森さんが、
 「愛護センター」から引き取ってきたわんこです。
 
 なんだか目は飛び出しているし、
 舌が口からべろーんと出っぱなしで乾いてます。
 「べーってしているけれど、
  ふざけてるわけじゃないよ」と、
 ブログで紹介されていたこともあります。
 ずいぶん変な、マンガみたいな顔なのです。
 ぼくは、「イーさん」がある程度元気になってから、
 二度ほどあったことがありますが、そのときは、
 少し舌を引っこめたりもできかけていました。
 友森さんが、ずいぶんかわいがってたみたいだから。
 
 「愛護センター」でも、
 「イーさん」のような極端にボロボロの犬には、
 なかなか里親希望者もつかなかったようです。
 友森さんの周囲の人たちも、さすがに
 「イーさん」を見たときには、
 けっこうびっくりした、という話も聞きました。
 
 どうして、「イーさん」がこんな身体になったのか。
 「イーさん」は、何度も何度もくり返し仔犬を産まされて、
 歯も毛も抜け、筋肉の力もなくなってしまったのです。
 「繁殖マシーン」のように扱われ棄てられた犬なんです。
 そういうわんちゃんが、現実にいるんですよね。
 
 よくなるにも、悪くなるにも、「イーさん」は、
 ずっと人間の思うままに生かされていたんですよね。
 犬や猫って、じぶんの運命を決められないからね。
 ぼくは、すべてのペットショップが悪いとは思いません。
 ただ、悪いショップや冷酷なブリーダーがいて、
 それが闇に隠れられるような社会のしくみは、
 犬や猫のためにも、人間のためにも、
 変えていきたいものだと思っています。
 そして、そのことに期待と希望を抱いているところです。
 どうぞ、『犬と猫と人間のはなし。』をごらんください。
posted by DOKSO at 00:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月12日

ダーリンメモ

あらためてわかったこともありました。
 それは、ぼくだけの考え方なのかもしれないですが。
 「忘れる」ことを怖れないようにしよう、ということ。
 ぼくは、人の気持ちは移ろいやすいもので、
 あれほど大きな痛みがあったけれど、
 よいにつけわるいにつけ、人間のこころというものは、
 徐々に忘れてしまうのだろうと、想像していたのです。
 春のころに会った被災地の人も、
 「忘れられてしまうのが、いちばん怖い」と、
 真剣に言っていました。

 でも、そんなことはないと思えてきた。
 そんなに簡単に「忘れる」ものじゃないです。
 じぶんがどれほど薄情だとしても、
 「忘れる」までには、ずいぶん苦労がありそうですよ。
 
 だから、「忘れないようにしよう」などと、
 気にしすぎないようにしようと思いました。
 「忘れてもいい」部分は、忘れます。
 そして、「忘れちゃいけない」ところは、
 「忘れられるもんじゃない」と、
 じぶんたちを信じていいんじゃないかと思えてきました。
 たぶん、ぼくや、ぼくらのこれからの活動は、
 短距離走のようなものではないんじゃないかな。
 長距離の、しかも障害物の多い、ゲーム性の高い活動。
 そういうものになるような気がします。
posted by DOKSO at 11:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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