2012年02月01日

ダーリンメモ 2/1

川勝正幸さん死亡のニュースを知った夜に読んだ。


気のせいなのかもしれないのだけれど、
 こうして、冬に、とても寒い日が続くと、
 人が亡くなったというニュースが多くなるように思う。
 寒さが、直接に、人のいのちを奪っている
 ‥‥というわけじゃないのだろうけれど、
 とても寒い日を感じているときには、
 遠くへいった人の話を、よく聞くように思えるのだ。
 
 生まれて、そして死ぬということは、
 誰にもかならずついてくることなので、
 それを格別に悲しむことはないという言いかたもある。
 そうなんだけれどね、それをそのまま受け容れるのは、
 ちょっとできない相談だ。
 「もういいや」と思うまで生きて死ぬ、という人も、
 ひょっとしたらいるのかもしれないけれど、
 たいていは、生きてきたこの世に、
 少なくない未練を残して旅立つのではないか。
 生きることそのものは、腹が満ちるようにはいかない。
 
 しかも、遠くへゆく人は、
 さよならの瞬間を知らぬまま旅立ってしまう。
 死について考えることは、
 なんとも、解決のしようもないことばかりで、
 どうどうめぐりしているばかりだ。
 
 ずいぶん寒い日が続くね。
 こればかりなら、言える。
 いくつものさよならが、寒さのなかにある。

・昨年の12月から今年の1月になって、
 カレンダーを取りかえたはずなのに、
 まだ一年経ったという実感がないままです。
 どうも、ぼくのこの一年は、
 三月のあの日から数えているように思います。
 長い時間が過ぎて、ようやく二月になりました。

・いまさらながら、「げんきでやろう」です。
 バカみたいと思われようが、
 元気でなにをしたいかが問題なんだ言われようが、
 「おまえも、げんきでやろう」と言いたい冬です。
posted by DOKSO at 23:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月01日

ダーリンメモ 11/30

スゲー良い事いいそうなのに、すんぜんで終るのが残念。


・「誰よりも先に、なにかをする」
 ということには、価値が生まれます。
 「最初に、これをやった」ということで、
 人々は称賛しますし、作品や商品も認められるでしょう。
 
 ただ、これは、多くの場合、
 その人の力が生みだしたものじゃなかったりします。
 「先に」なにかをすることで得たものは、
 その「先に」の部分の効力に期限があります。
 「先に」に続いて「次から次に」
 同じようなものが続いてくるので、
 見分けがつかなくなってくるからです。
 
 「あれは、おれが誰よりも早くやったんだ」
 と自慢したいようなことは、誰にもありそうです。
 ぼくにも、ちょっとはありますね。
 でも、それは、やがて埋もれていく価値です。
 誰が最初にやったかに、意味がないわけじゃない。
 でも、それは、どうだってよくなっちゃうんです。
 
 「なにかを、最初にやってヒットした人」は、
 「ヒットを生み出した人」として認識されますから、
 さらに「ヒット」を生みだせるのではないかと、
 人々は期待します。
 しかし、また「新しいことを最初にやる」には、
 新しいことの仕入れが必要なんですよねぇ。
 でもですよ、そんな
 「新しいけど、まだ誰もやってないこと」なんて、
 ひょいひょいと転がってるはずもないでしょうよ。
 「先にやる」ということの限界は、
 あんがい、早くやってくるものです。
 
 「あいつの情報は、いつも新しい」というようなことも、
 たくさんのことを「先に知っている」という意味です。
 ずっと「先に」を維持していく必要が生じます。
 先も後もなく、古くもならない「よさ」を、
 どういうふうにつくり続けるか、
 そのことが、大事なんだよなぁとしみじみ思います。
 ‥‥というようなことを、
 社内の雑談ミーティングで、話しておりました。。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
犬と猫と人間のはなし‥‥報告とお願いです。よろしくね。
posted by DOKSO at 00:23| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月08日

ダーリンメモ 11/7

昨日、ここで、小言めいたことを書いてしまいました。
 電車に乗って目に入った中吊りや車額の広告に、
 制作者たちの「この仕事したいんです」
 という気持ちが感じられなかった、というようなね。
 そしたら、広告業界のなかにいる人たちから、
 「ほんとうに、そう思うんだ」と賛成の意見をもらった。
 「仕事をこなす」という感じで、いっぱいなんだって。
 ぼくには、これ以上助言することもないので、
 それぞれにジタバタしてほしいと思ったわけです。

・こういう「顔色のわるい感じ」の逆なのが、
 「気仙沼のほぼ日」で会う人々の話です。
 「打席に立てるよろこび」どころじゃないわけです。
 どこもかしこもがグラウンドで、
 バッターボックスは、じぶんで線描いて立っちゃう。

 ★それなら、できるんじゃないか。
 ★ああ、だったら、あの人に連絡してみようか。
 ★さっそく試してみます。
 ★うわぁっ、やってみたいねぇ。
 ★あれから、ずっと考えてたんですよー。
 ★ほんとになったら、泣いちゃうね。

 こんなセリフが、しょっちゅう聞こえてくる。
 口にした人がうれしそうだし、耳にした人がうれしそう。
 悲しいこと、いっぱい経験した人たちがいて、
 ひとりになったら沈んでるとか言う人もいて、
 そんなことみんな承知で、立って動いているんです。
 じぶんたちのことで精一杯とも言えるのに、
 他の土地で苦しんでる人のことを勘定に入れてるんです。
 
・どっちも、いまの、同じ日本のなかの話なのですが、
 両方が顔を見合わせればいいと思うんですよね。
 たがいに、いま、少し余計にあるものを交換して、
 もっと動きやすくしていく‥‥そういう感じの交流。
 「気仙沼のほぼ日」の仕事のなかには、
 そういうシチュエーションづくりもあるような気がする。
 
 岩手も宮城も福島も茨城も東京も千葉も‥‥もっと、
 がちゃがちゃと、かき混ぜられたらいいよねー。
posted by DOKSO at 06:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする