2011年12月28日

ダーリンメモ

「人によろこばれる」ということは、
 人間にとって、もう「本能」と、
 言っていいものじゃないでしょうか。
 
 「ありがとう」ということばを、
 たくさんの人たちが、あんなに好きなのも、
 「人によろこばれる」ときのことばだからでしょう。
 
 「ほぼ日」のなかでも、よく、冗談半分に
 「おれたち、ほめられたらなんでもしちゃうな」
 とか言いあっています。
 
 人間といっしょにするなとも言われそうですが、
 犬も、「おお、よくできたねー」という
 飼い主のよろこびの声をごほうびにして、
 いろんなことができるようになります。
 最近うちの犬は、散歩コースを引き返すポイントで、
 「ターン」と言うと素直に帰るようになったそうです。
 
 「人によろこばれる」仕事をしているという実感は、
 働くことをとてもうれしいものにしてくれます。
 叱られ、怒鳴られておぼえていく仕事も、
 (ぼくにはわからないけれど)あるのかもしれませんが、
 なにが「よろこばれる」ことなのか、
 だんだんわかっていく過程のほうが、
 のびのびした上達への道のように思えます。

 「雇用」ということばが、よく使われていて、
 うん、それはもう、ほんとうに大事なことだと思います。
 ただ、このごろ思うようになったんです。
 職の数と、人の数が合うだけじゃ、
 ほんとうの「雇用」にはならないんですね。
 むろん、職を持つというのは
 生活の手段でもあるのだけれど、
 同時に「人によろこばれる」という
 「本能」を満たしてくれるものでもあると思うんです。
 「人によろこばれない」仕事をしているのは、つらい。
 反対に、「人によろこばれている」という実感があれば、
 かなりの仕事は、やれるものなんじゃないかなぁ。
 気仙沼に通うようになって、特に思っていることです。
posted by DOKSO at 00:22| Comment(0) | itoi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月22日

ダーリンメモ 11/22

「悲しいことなんか、あるに決まってるさ」
 なんてことも言わずに、微笑んでいる人がいます。
 つらいとか、苦しいとか、悲しいとか、怖いとかを、
 感じない人は、おそらくいないと思います。
  
 悲しい悲しい、怖い怖い、と連呼したがる人と、
 それを感じても黙って笑っていようとする人と、
 どこがちがうんだろうと考えました。
 
 厳しい状況で、どうして微笑んでいる人がいるのか。
 ぼくは、たくさんの「そういう人」を見てきました。
 彼らひとりひとりの繊細な感受性については、
 ぼくはよく知っているつもりです。
 恐怖にしても悲しみにしても、
 感じてないはずはないのに、落ち着いて微笑んでいる。

 そういう人は、ぼくが思うには、たぶん、
 「そういう人でありたい」と思っているから、
 そういう人でいられるのだと思うんです。

 だいたいのふつうの人は、
 「そういう人でありたい」と思ってないんです。
 とても自然に悲しんだり怖がったりしているだけで、
 どういう場面で、どういう人間でありたいかなんてこと、
 考えないでふるまっているのだと思うんです。
 おそらく、ちがいは、それじゃないかなぁ。
 どういうじぶんでありたいのか?
 これは、自然な裸のふるまいの上に、
 じぶんで着られる衣装かもしれないです。
 「おしゃれ」っていうのも、そういうことなのかも。
 
 今年は、あの震災があったせいで、
 特にたくさんの「そういう人」に会えたと思います。
 男性もいるし、女性もいる。老人も、若い人もいます。
 自然なふるまいももちろんできるし、
 他の人を守るための笑顔も絶やさない人たちです。
 実際に、「そういう人」はちゃんといる。
 そういう人のことを、いいなぁと見ていると、
 じぶんもだんだん「そういう人」に近づけるかもです。
 「そういう人でありたい」と思うもの、やっぱり。
posted by DOKSO at 11:44| Comment(0) | itoi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月15日

ダーリンメモ 9/15

「目的」ってやつは、なかなかたいしたもので、
 それを持っていたほうが、なにかと「やりやすい」。
 「やりやすい」ばかりでなく、「めげない」ですむし、
 どれくらいできているか「計る」こともしやすくなる。
 
 「目的」っていうものを、道具として考えたら、
 そりゃぁもう、あるとないとじゃ大ちがいだと思います。
 ぼくは、目的という道具を否定はしません。
 いや、それどころか、
 「目的」というものを設定することを、
 仕事などでも、多くの場合は推奨したりもしています。

 しかし、であります。
 「目的」は、いかなるときにも必要なものか?
 といえば、そんなことはないのであります。
 いや、そんなことはないどころか、
 「目的」という道具を使ってはいけないことも、
 あると思うのです。
 
 たとえば、誰かとともだちになるのに、
 何か「目的」がありましたか?
 たしかに入国審査のときには、「観光です」などと、
 「目的」を語ってしまいますが、
 そんな「目的」で旅をしてるのかなぁ。
 恋愛だとかも、「目的」ということばがでてきたら、
 なんだか仕事みたいに思えちゃいますよね。
 歌を歌う「目的」は? 絵を描く「目的」は?
 むりやりに言えば言えるのかもしれないけれど、
 それは、「ちがう!」と、ぼくは思うのです。
 
 「目的」がないと、なにかしちゃいけない
 ‥‥なんてことは、ないですよね。
 実は、実は「目的」のないことのほうが多いくらい。
 なんだか、いまの世の中って、
 人間が、「目的」に使われてるんじゃないかなぁ。
 ひどい言い方をすれば、
 <人間は「目的」の奴隷である。>
 になっちゃってない?
 もし、数値化できるとしたら、
 ぼくの「目的度」は、生きてる時間の10%くらいかなぁ。
posted by DOKSO at 00:00| Comment(0) | itoi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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