2015年08月16日

2015_08_16

吉本隆明さんが「ありがとう」というのを、
 あんまり聞いたおぼえがない。
 それはそれで、なかなか吉本さんらしくてよかった。

 昔の日本で育った人は、あんまり
 「ありがとう」と言う習慣はなかったような気がする。
 いまなら「ありがとう」というような場面では、
 「すみません」とは言っていたと思う。
 そして、「ありがとうございます」というように、
 「ございます」をつけた礼儀のことばとして使っていた。
 「ありがとう」をナマで使えるのは、
 目上の人から、下の人へだけだったのではなかったかな。
 同格や、とても親しい間柄だった場合にでも、
 あらためて「ありがとう」なんて言ったら、
 「よせやい、水くせぇ」ということになるだろう。
 「礼にはおよばねぇよ」というのも同じことだ。
 
 感謝を伝える、親しい関係のなかでも、こまめに伝える、
 というのは、人間関係の技術のひとつとして、
 ある時代から広まった文化なのではないだろうか。
 ぼく自身のことを考えても、ぼくの「ありがとう」は、
 意識的に「好もしい習慣」として学んだものだと思う。
 自然にしていたら、「ありがとう」の場面で、
 「いやぁ、これはどうも」「わぁ、すみません」
 と、吉本さんと同じような反応をしていたのではないか。
 「ありがとう」は、言ったほうがよろこばれるし、
 さまざまな関係がスムーズであるような気がして、
 江戸時代の人が洋服を着るように学んだのだ。たぶん。
 
 もちろん、いまの社会の流れのなかで、
 「ありがとう」と言うことは、もっと広がるだろう。
 ただね、感謝の気持ちをぜんぶことばに出すだけでなく、
 「沈黙」の大海のなかにゆらゆらさせている人も、
 いてもいいんだよ、と、思ってもらえるといいなぁ。
 
 これは、「ありがとう」ばかりのことじゃない。
 「愛してる」だとか、「悲しい」「うれしい」でも、
 ことばにして言うだけじゃなく、感じてる人がいるんだ。
 「有言実行」がよいことともてはやされるけれど、
 そのことばの先祖は「不言実行」だからねー。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「ありがとう」と、「握手」も、似ているような気がする。
posted by DOKSO at 22:55| Comment(0) | itoi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月08日

ダーリンメモ 2013/01/07

・たとえば、じぶんがクルマだったとしたら、
 走りたいと思うんだ。

 速く、すっごいスピードで走りたい。
 わぁっとみんなをびっくりさせるような速度で、
 走り回りたいと思うんだ。
 
 ずっと、どこまでも遠くまで走りたい。
 ガソリンの最後の一滴がなくなっても、まだ、
 走り続けていたいと思うんだ。

 たくさんの人たちを乗せて運びたい。
 憶えたての歌を歌うこどもたちとか、
 何百人でも乗せて走りたいと思うんだ。

 たとえば、じぶんが歌だったら、
 じょうずでも、へたでもかまわないから、
 みんなに歌ってもらいたいと思うんだ。

 たとえば、じぶんが野うさぎだったら、
 地面にいっぱい穴をほって、いっぱい逃げたり、
 いっぱいはねたり、いっぱいこどもつくったり。
 野うさぎっぽいこと、いっぱいしたいと思うんだ。

 たとえば、じぶんが生まれたての人だったとしたら、
 なにができるのかわからないままに、
 できることを探したり増やしたりしながら、
 なにかやらせて、なにかやらせてと動くんだろうな。
 
 クルマでも、歌でも野うさぎでも人間でも、
 できることはぜんぶやったなぁと感じるのが、
 いちばんのあこがれだよなぁ。
 
 このからだを、このこころを、この知恵を、
 この思い出を、このいのちを、
 まるまるまるごと使い切れたら最高だよな。

 できるかもしれないことは、したい。
 できることは、もっとじょうずになりたい。
 生まれたての人のようにね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
生まれたての人だったとき、ものすごく生きたがってたね。
posted by DOKSO at 01:21| Comment(0) | itoi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月26日

ダーリンメモ 2012/09/26

気仙沼のおじいさんが、きっぱり言いましたっけ。
 「津波がどれだけ恐ろしいといったって、
  戦争のほうが何倍も恐ろしかった。
  つらいつらいと言ったって、
  戦争のときのほうが、ずうっとつらかった」
 ぼくは、それを聞いてて、
 簡単に「そうですよね」とは言えませんでした。
 目の前に津波の被害があるところで、
 「戦争のほうがつらいですよねぇ」なんて、
 旅人が言えるわけはなかったですから。

 でも、このことばは、あちこちで何度も聞いてました。
 戦争を体験した方々は、口々に、
 「あのときに比べたら」と、教えるように言いました。
 そうなのか、そうなんだろうなと思うと同時に、
 ずっと「どうしてなんだろう?」と考えていました。
 
 考えて、わかったようなことは言えないけれど、
 この「戦争」という文字を「人間」に置き換えると、
 ずいぶん怖さが実感できるような気がしました。
 
 たしかに、津波はある日一度襲っただけですが、
 戦争は、毎日続きます。何年も続いたりします。
 (人間がそれをやめないからです)
 津波のとき高台に逃げて助かった人がいたけれど、
 戦争は、隠れても探しだし、逃げても追いかけてきます。
 (人間は、そういうことができますから)
 しかも、追いかけてくるのは、敵ばかりではない。
 味方だと思っていた「正しい人たち」が、
 考えのちがうものを、探しだして吊るし上げてくれます。
 (人間は、そういうこともする)
 そんな日々が、ずっと続くのが戦争だとしたら、
 そりゃぁ「津波より恐ろしい」と言うのもわかります。
 
 津波が怖くないなんて、言ってるわけじゃないのですが、
 ほんとうに戦争は恐ろしいものなんだと思います。
 凝り固まった人間が、許さない人間が、
 じぶんの考える正しさのために、なんでもする‥‥。
 海は、翌朝、すっかり穏やかな海に戻ったらしいけれど、
 人のすることは、そうは行くもんじゃない‥‥。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
人間のいいところも、たくさんあると知ってるからこそね。
posted by DOKSO at 20:16| Comment(0) | itoi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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