2011年09月22日

ダーリンメモ

ぼくが職業として、それでめしを食っていたのは、
 コピーライターという仕事でした。
 コピーライターとして、
 専門の勉強をしたことになっていましたが、
 専門学校のようなところで、1年くらいだけです。
 その期間、教室に通ったことを根拠に、
 ぼくはコピーライターとして、
 広告制作プロダクションに就職したのでした。
 
 専門性のちがいなんて、講座に通ったかどうかだけです。
 このことについては、ぼく自身が、
 「あやしいものだよなぁ」と思っていました。
 実際の仕事をはじめてから、ぼくの実力は、
 ほんの少しずつましになっていったのでした。
 
 じぶんの職業の専門性を疑っていたぼくは、
 他の職業の人にも、その失礼な目を向けていました。
 写真学校を出たからカメラマンだとか、
 美術の学校を出たからデザイナーだとか、
 料理学校に通ったから料理がうまいとか、
 経済学部を出たから経済のことはまかせとけとか、
 そういう思いこみは、やめたほうがいいと思ってました。

 たった1年か2年、なにかを習ったということで、
 どれだけ「シロウト」とちがう力を発揮できるのか。
 そういう生意気なことは、いまも思っています。
 なにかを習ったから、「最低限ここまでできる」とか、
 ある期間弟子だったから「一割くらいは先生」なんて、
 自動的に力がつくなんてことは、ないと思っています。
 せいぜい、「その世界に詳しい人」になるだけです。
 
・素直で真剣な「シロウト」は、
 素直に真剣に「専門家」を追いかけたらいいと思います。
 ビートルズは音楽学校ではなく、美術学校の学生でした。
 しかし、ビートルズという音楽家になった‥‥。
 素直に真剣にくりかえし学ぶ「シロウト」であること。
 「ほぼ日」は、そうでなきゃいけないなと、
 このごろまた、つくづく思っています。
 練習のための練習でなく、実現したいからやる練習。
 ぼく自身も「シロウト」のまま、がむばりまっす。
posted by DOKSO at 07:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月15日

ダーリンメモ 9/15

「目的」ってやつは、なかなかたいしたもので、
 それを持っていたほうが、なにかと「やりやすい」。
 「やりやすい」ばかりでなく、「めげない」ですむし、
 どれくらいできているか「計る」こともしやすくなる。
 
 「目的」っていうものを、道具として考えたら、
 そりゃぁもう、あるとないとじゃ大ちがいだと思います。
 ぼくは、目的という道具を否定はしません。
 いや、それどころか、
 「目的」というものを設定することを、
 仕事などでも、多くの場合は推奨したりもしています。

 しかし、であります。
 「目的」は、いかなるときにも必要なものか?
 といえば、そんなことはないのであります。
 いや、そんなことはないどころか、
 「目的」という道具を使ってはいけないことも、
 あると思うのです。
 
 たとえば、誰かとともだちになるのに、
 何か「目的」がありましたか?
 たしかに入国審査のときには、「観光です」などと、
 「目的」を語ってしまいますが、
 そんな「目的」で旅をしてるのかなぁ。
 恋愛だとかも、「目的」ということばがでてきたら、
 なんだか仕事みたいに思えちゃいますよね。
 歌を歌う「目的」は? 絵を描く「目的」は?
 むりやりに言えば言えるのかもしれないけれど、
 それは、「ちがう!」と、ぼくは思うのです。
 
 「目的」がないと、なにかしちゃいけない
 ‥‥なんてことは、ないですよね。
 実は、実は「目的」のないことのほうが多いくらい。
 なんだか、いまの世の中って、
 人間が、「目的」に使われてるんじゃないかなぁ。
 ひどい言い方をすれば、
 <人間は「目的」の奴隷である。>
 になっちゃってない?
 もし、数値化できるとしたら、
 ぼくの「目的度」は、生きてる時間の10%くらいかなぁ。
posted by DOKSO at 00:00| Comment(0) | itoi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月14日

ダーリンメモ 9/14

人間は、だいたい同じ原料で出来ていて、
 同じような空気やら水やら、
 炭水化物やらたんぱく質やら脂肪やらミネラルを摂って、
 同じように寝たり起きたりしているものだから、
 似てないようで、けっこう「似ている」ものです。
 だから、じぶんが嫌っている別の人間の思考だとか、
 じぶんには縁がないと思いこんでいる人の感情だとかも、
 意外と想像できることが多いものです。
 つまり、じぶんの嫌いな人の考えることは、
 じぶんのなかに、「少しある」んですよね。
  
 ぼくも人間なので、それなりに苦手や嫌いがあります。
 その人と、ぼくは、まったく似てないのではなく、
 おそらくどこかが「似てる」んです。
 いやだなぁ、と苦く笑っちゃうんだけれど、
 それは、あっちも思ってるにちがいないことでね。
 
・嫌いな人、いやだなぁと思う人を、
 同じ人間じゃなく「敵」と名付けてしまうと、
 たがいに、相手に対して何をしてもいいことになります。
 「敵」だから(「敵」はワタシを危うくするから)、
 何を言っても何をしてもいい。そして消えてほしい。
 そう思えるようになります。
 「敵」を、より憎むために、人間以外の名前も付けます。
 悪い名を平気で投げつけられる人は、
 誇らしげに、相手を罵り、周辺の拍手をもらいます。
 嫌だなぁ、そういうの‥‥。
 ほんとに嫌だ、そういうの‥‥で、また思い出すわけ。
 実は、その人は、どこかワタシに似ている。
 こういう、せつない構造って、
 大昔からずっと直らずに続いているんでしょうね。
 このくり返しは、かなり、精神を疲弊させます。
posted by DOKSO at 00:00| Comment(0) | itoi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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